神秀の偈頌は「身是菩提樹」と説き、慧能は「菩提本無樹」と対しました。注釈者たちは、神秀は執着し、慧能は執着を破ったと評しています。しかし、実際には、神秀の偈頌は最初の句から誤っています。仏教では、身は苦しみの根源であり、身を菩提に例えるのは誤りです。修行とは心を修めることであり、身体を磨くことではありません。慧能が「菩提本無樹」と言ったのはそのためです。
神秀の二句目、「心如明鏡台」も誤りです。仏性を明鏡に例えるのは良いですが、明鏡台に例えるのは誤りです。神秀が間違えたのは、偈頌の韻の問題です。「台」という漢字は、最後の句「勿使惹塵埃」(塵埃を寄せ付けないように)と韻を踏むために使われました。そのため、慧能は「明鏡亦非台」と言ったのです。
神秀は続けて「時時勤拂拭」と述べますが、これは禅宗の修行法ではありません。これは妄心を鍛えることであり、毎日妄心を鍛えても、妄心は依然として妄心のままで、仏性にはなれません。慧能は「本来無一物」と対し、拭くべきものはない、仏性は拭くべきものはないと言っています。
神秀は最後に「勿使惹塵埃」と結論付けますが、慧能は「何處惹塵埃」と対します。この句は、仏性は決して汚染されないことを意味しています。見性した者だけが、仏性が汚染されないことを証明できます。そのため、慧能は衣鉢を継承しました。
禅宗の生存原理は、仏性が決して汚染されないということです。仏性が汚染されないからこそ、悟り、明らかになると言います。古来、仏性は本来円満であり、無始以来、私たちの仏性は円満で、清らかで、大涅槃です。最も高尚なことは、仏性が決して汚染されないということです。仏性が汚染されないからこそ、私たちは見性することができ、見性の法門があり、禅宗があるのです。
しかし、仏性を空と理解するのは誤りです。仏性は空ではありません。仏性は真如であり、妙有であり、常楽我浄です。「本来無一物」という句から、仏性を空だと考えた最初の人は、神秀でした。
神秀が主張する「時時勤拂拭、勿使惹塵埃」は、二乗の修行法です。禅定と解脱を修して、阿羅漢を得るというものです。禅宗の目的は見性であり、禅定や解脱ではありません。神秀は禅宗の目的と修行法を理解しておらず、仏教の基本さえも理解していませんでした。一方、慧能の偈頌は、禅宗と仏性についての真実を語っています。それは、見性した者の偈頌です。「明鏡亦非台」は、仏性は本来清らかであり、拭く必要がなく、汚染されないことを断言しています。